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顕彰と助成

本年度の受賞者

平成27年度 第35回 伝統文化ポーラ賞 受賞者(敬称略)


優秀賞

大皿に銀箔を撫子の花の形に切って貼り付ける作業

  • 中田 一於(なかだ かずお)
  • 昭和24年生まれ
  • 石川県
釉裏銀彩の制作・伝承
中田一於さんは九谷焼で色絵を生業とする名窯に生まれ、家業を通して陶技を習得し、人間国宝・三代徳田八十吉に師事した。30代で「釉裏銀彩(ゆうりぎんさい)」の技法を確立し、今日まで35年以上この技法を追求し続けている。
「釉裏銀彩」とは、下地を塗って焼成した素地に銀箔を切って膠(にかわ)で貼りつけ、透明釉をかけて焼成する中田さん独自の技法。金箔を貼りつける「釉裏金彩」の技法は昭和30年代に竹田有恒が考案し、人間国宝・吉田美統が確立していた。これに対して、中田さんは「銀箔の楚々とした輝きは、現代の生活に溶け込むのではないか」との思いから、九谷焼の技術者が酸化による変質を嫌って使うことのなかった銀箔を用いることに挑んだ。実際には、釉薬と釉薬の間に銀箔を閉じ込める「釉裏銀彩」の技法は、銀の酸化を防ぎ、その美しい輝きを長く保つことができることを証明することになる。
この技法に、彼は自ら命名した「淡青」「淡桜」「紫苑」という3種の透明釉、「白地」「墨地」「黒地」の3種の素地を組み合わせ、多彩な作品を制作している。その制作工程は精緻を極め、銀の濃淡を表現するため、何度も銀箔を重ねて模様を切り出し、焼成を繰り返して完成に至る。壷や皿などの器体に銀彩で表現された草花や幾何学的模様は、落ち着いた輝きを放ち、従来の九谷焼にはない清涼感と気品が漂う。近年は抽象的なパターンと撫子や葡萄などの具象的な文様が交錯するもの、ペイズリー柄を発展させた文様など、新しい意匠にも意欲的に取り組んでいる。
昭和57年の第29回日本伝統工芸展 日本工芸会奨励賞をはじめ平成2年、平成22年と3回受賞、平成13年伝統九谷焼工芸展大賞、平成14年には石川県指定無形文化財認定。平成23年には、それまでの功績が認められ、紫綬褒章を受章した。また、平成26年、日本工芸会石川支部幹事長に就任。現在は若手作家の育成など、九谷焼を中心とする地場産業の保存発展にも尽力している。

「ぢゃんな節」 女踊り
平成24年12月16日
第15回 佐藤太圭子の会
(於 国立劇場おきなわ)

  • 佐藤 太圭子(さとう たかこ)
  • 昭和19年生まれ
  • 沖縄県
琉球舞踊の伝承・創作
沖縄の舞踊家として幼少の頃から踊りはじめた佐藤太圭子さんは、半世紀以上にわたり鍛え抜いた心技で、琉球舞踊の普及と発展に力を尽くしてきた。琉球舞踊には、古典舞踊、雑踊(ぞうおどり)などがあるが、それに加えて代表的な「菊」「つらね」「綾」など50作を超える創作舞踊を発表してきた。今回の受賞は、伝統と創造の相克を持ちながら熟成の時を重ね、琉舞創作に新生面を拓いたことが評価された。
佐藤さんの琉舞との出会いは早く、昭和26年に7歳で宮里ヨシ子師に師事、昭和32年には島袋光裕師に師事し、琉舞・組踊を学んできた。特に島袋師には琉球舞踊に欠かせない「ガマク」という独特の呼吸法の指導を受けるなど、論理立てた舞踊の基礎から身体表現の方法を学んできた。
昭和48年の沖縄復帰後からはじめた「佐藤太圭子の会」は15回を数え、組踊や女踊り、二才(男)踊りなどテーマを掲げて琉球舞踊を広めるとともに、太圭(たか)流家元として沖縄の芸能界に刺激を与えてきた。その精力的な活動は、昭和56年に第15回沖縄タイムス芸術選賞大賞、昭和57年度文化庁芸術祭優秀賞、同年度舞踊批評家協会賞、平成15年 第24回 松尾芸能賞舞踊優秀賞を受賞している。
また、昭和61年からは国際交流基金主催で行っている世界各地への琉球舞踊の公演活動も5回を数えた。平成12年には重要無形文化財「琉球舞踊」総合認定となった。
このほか、平成2年から19年間にわたり沖縄県立芸術大学で学生を指導。現在、琉舞の世界の第一線で活躍する舞踊家などを育て上げている。また、大学在職中に、かつて島袋師から受けた呼吸法の指導を基に論文「琉球舞踊と呼吸に関する一考察」も発表。現在は家元としての活動のほかに、琉球舞踊保存会理事、沖縄タイムス社芸術選賞の選考委員など後進の指導にも力を注いでいる。

奨励賞

截金ガラスの最終仕上げ
(フェルトを貼った回転盤に酸化セリウム粉をつけてガラスを磨いている)

  • 山本 茜(やまもと あかね)
  • 昭和52年生まれ
  • 京都府
截金ガラスの制作
ガラスの中に浮遊する截金(きりかね)は、光の反射を受けて見るたびに姿を変え、変幻自在な煌めきを放つ。山本茜さんは、截金をガラスに接着して、その上からさらにガラスを溶着して截金をガラスの中に閉じ込めた立体的な截金の美しい作品を作り出している。元来、截金は金箔などを切り、仏像や絵画、彫刻に貼って装飾する技法だが、それは時間とともに変色や剥落する運命にある。山本さんは截金をガラスに封じ込めることで、永遠の輝きを持つ截金美術を生み出した。
平成8年、京都市立芸術大学美術学部において日本画の模写を学び、古典絵画技法を研究する。山本さんは、平安仏画の模写を通して截金と出会い、在学中から重要無形文化財「截金」保持者の故江里佐代子氏の指導を受けてきた。平成20年には作品が第55回日本伝統工芸展に初入選し、宮内庁買い上げになるなど順調な滑り出しとなった。しかし、次第に装飾としての截金ではなく、截金主体の新たな芸術表現を模索し始め、その可能性を截金とガラスとの融合に見出し、富山ガラス造形研究所に学ぶことになる。
平成23年に同研究所を卒業すると、京都市内に個人工房を設立し、新しい「截金ガラス」の制作活動が始まった。ガラスの上には、下書きを描いて作業をすることは許されない。それは、ガラスを電気炉で溶着するとき、熱で下書きの線が発泡して気泡が生じてしまうからだ。そのため、フリーハンドで直線などを描くのは、神経を使う作業だという。こうして封入した截金は、ガラスの中に三次元に浮遊させることが可能になり、カットした面の角度からの映り込みなど、さまざまな表情を見せ、截金は装飾技法の枠を越えた。
平成23年には第40回日本伝統工芸近畿展 日本工芸会近畿支部長賞をはじめ、第23回伝統工芸諸工芸部会展 朝日新聞社賞、翌年には平成24年度京都市芸術新人賞、昨年は第61回日本伝統工芸展 NHK会長賞を受賞するなど評価を得ている。
今回の受賞は、截金の伝統的な技法を応用しながら、ガラス工芸の分野を取り入れて截金美術の新しい可能性を拓き、これまでにない新しい美の世界を創り出していることが評価された。

地域賞


避難先の仮設工房(窯場)

北海道・東北
  • 大堀相馬焼協同組合(おおぼりそうまやききょうどうくみあい)
  • 昭和46年設立
  • 福島県
大堀相馬焼の伝承・振興
大堀相馬焼は、福島県双葉郡浪江町大字大堀一円で生産される焼物である。地元で採掘される「砥山石(とやまいし)」が原料の釉薬による不定形なひび模様「青ひび」と、馬絵という「走り駒」の絵柄、保温性もある「二重焼」と呼ぶ二重構造の3点が特徴で、日常使いの親しみやすい陶器として知られる。
はじまりは元禄3年(1690)とされ、相馬藩の保護・奨励のもとで生産・販路の拡大を図り、江戸時代後期には100数戸の窯元が軒を連ねたという。明治維新後の近代化に伴いその数は減少するが、その後も20数戸の窯元が伝統を守り続けた。
昭和46年に大堀相馬焼協同組合が設立され、同53年、大堀相馬焼は「伝統工芸品」に指定。毎年「大せとまつり」(5月)の催事や、平成14年に展示販売スペース・登り窯・研修センターなどを備えた大堀相馬焼物産会館「陶芸の杜おおぼり」を開設するなど、現在まで積極的に継承・復興に努めてきた。
しかし、平成23年3月11日、東日本大震災が発生。福島第一原子力発電所の事故災害により、全ての窯元が浪江町外への避難を余儀なくされた。さらに、砥山石などの原料も、放射能汚染で新たな採掘ができなくなった。この産地消滅の危機に対し、組合は「いつ浪江に戻ってもいいようにみんなで焼き物を続けよう。大堀相馬焼団地を作ろう」と、避難先である二本松市に拠点を移動。平成24年7月に新たな物産会館「陶芸の杜おおぼり二本松工房」を開設。また、砥山石の代替材料を福島県ハイテクプラザと一緒に開発し、青ひび釉を復元することにも成功した。
大堀相馬焼という地域文化の継承には、今後も大堀相馬焼協同組合の積極的な活動が期待されている。

欅の角材を轆轤挽きしている様子

北陸・甲信越・東海
  • 山中木地挽物技術保存会(やまなかきじひきものぎじゅつほぞんかい)
  • 平成5年設立
  • 石川県
山中木地挽物の伝承・振興
漆器生産の盛んな石川県では「木地の山中」と言うほど、「山中木地挽物」は旧山中町(現加賀市)の木地師たちが伝承してきた卓越した轆轤(ろくろ)技術で知られている。「挽物」とは轆轤で挽いて造った椀や鉢などを指し、主にケヤキやミズメ、トチなどの樹木を木地として、自然の木目を生かした独特の温かさを感じる作品が「山中木地挽物」ならではの特徴である。
起源は、天正年間(1573〜1592)ごろ、挽物職人の木地師が旧山中町上流の真砂村に 移住してきたことに始まる。 江戸時代中期には、現在の加賀市山中温泉地区に木地挽物の技術が伝わり、すでに「加飾挽き」と呼ぶ木地に細かい筋を入れる技術が創作された。その技術は、明治初期の轆轤の改良で飛躍的な発展を遂げてきた。
作業は、まずは木目が縦に入る「縦木取り」と、横に入る「横木取り」の方法を作品に応じて選択することから始まる。具体的な工程は、原木の切り出し・製材・木取り・荒挽き・ 乾燥・ならし・中荒挽き・乾燥・ならし・仕上げ挽き・加飾挽き・拭き漆などが挙げられる。
また、職人の腕の見せ所とされる木地の表面に鉋を当てて細かい模様を付ける「加飾挽き」は、数十種類以上もあり、模様ごとに使う鉋(かんな)は挽物職人自らが製作している。これらは他に類を見ない技法で、高く評価されている貴重なものである。
その芸術的・工芸史的価値と地方的特色の高さから、平成22年に石川県の無形文化財に指定された。また、平成5年に設立された保存会は、重要無形文化財「木工芸」保持者である川北良造氏を会長に、さまざまな活動を行っている。石川県立山中漆器産業技術センターで、若い研修生に積極的に技術指導を行い、会員の工房に弟子入りさせるなど、組織的な伝承者の養成もその一つである。当保存会が、地域に根ざした伝統工芸技術の伝承と後継者育成の事業に着実に成果を挙げ、さらなる発展が期待されることから、「地域賞」に選定された。

平成27年7月26日
公演前日、リハーサル

近畿
  • 冨田人形共遊団(とんだにんぎょうきょうゆうだん)
  • 明治7年設立
  • 滋賀県
冨田人形浄瑠璃の保存・伝承
「冨田人形共遊団(とんだにんぎょうきょうゆうだん)」は長浜市北富田の地で受け継がれてきた人形浄瑠璃「冨田人形」を踏襲し、伝統文化の伝承、発展をめざす団体である。
「冨田人形」の歴史は、天保6年(1835)頃にさかのぼる。阿波人形一座が帰国の途中、豪雪地帯である近江の北富田で停留。雪で興行ができずに旅費を得るために、人形や大道具一式を置いていった。その荷物を長い間引き取りにこなかったので、これを使って集落の農村歌舞伎を演じていた青年たちが稽古を始めたのが始まりとされる。その後、大阪から人形遣いや人形師が来村、人形座として発展させ、「吉田座」と称して近隣で公演活動を行うようになった。明治7年には滋賀県の興行許可を受けて独立、「冨田人形共遊団」として活動を始めた。
父子相承の形で5代以上にわたり伝えられるうちに「冨田のデコ芝居」として愛好され、昭和32年に滋賀県選択無形民俗文化財に指定された。その後、戦後の後継者不足により一時休止されたが、地域有志が支える伝統芸能へと変化し、昭和53年活動を再開。人形遣いの他に、太夫、三味線も養成し、要望に応えて全国で公演できるようになった。
平成3年に本格的な舞台や設備を備えた「冨田人形会館」を竣工。日常的な稽古の拠点ができ、さらに活動の幅が広がった。国内各地での公演や、11回を数える北米をはじめとする海外公演も積極的に行っている。
また会館竣工の年から、米国のミシガン州立大学連合日本センターの留学生を受け入れ、人形浄瑠璃の伝授を行う国際交流事業の「冨田人形サマープログラム」を開講。これまでに約300名の留学生が参加し、日本文化への理解を深めている。
「冨田人形共遊団」の活動は、伝統文化の継承にとどまらず、地域と次世代への人形浄瑠璃の普及、海外発信、国際交流など多岐にわたり、先進的な試みを進めている。今後のさらなる活躍に期待して、地域賞を贈ることとなった。

平成24年11月11日
「第27回国民文化祭・とくしま2012
つるぎの里文化祭」

中国・四国
  • 一宇雨乞い踊り保存会(いちうあまごいおどりほぞんかい)
  • 昭和43年設立
  • 徳島県
一宇雨乞い踊りの保存・伝承
「一宇雨乞い踊り」は徳島県美馬郡つるぎ町旧一宇村に伝わる雨乞い祈願の踊りである。全国各地に見られる太鼓踊の流れを汲み、素朴ながらお囃子や大きな飾りのついた笠で勇壮に踊られる。
一宇村は四国山地の剣山北麓に位置する、標高1,500メートル級の山々に囲まれた山村。急斜面に作られた畑は日照りの影響を受けやすく、干天が続いて水不足になる度に、人々は氏神の社に集まり、龍神や水神に祈願するために踊った。現存する太鼓に文化11年(1814)の銘があることから、200年ほど前にはすでに踊られていたことが分かっている。こうして、雨乞い踊りの儀式は神仏に祈願する重要な「村祈祷」の行事として伝承されてきた。
踊りは、ほら貝、鉦、太鼓、笠、幟持ち、唄の20人前後で構成される。中でも特徴的なのは、重さ約15kgの巨大な太鼓と、直径2mほどの団扇状の笠と呼ぶ頭上の飾り。「道行」という入場行進から始まり、その後、鉦・ほら貝・太鼓に合わせて「呼べ、飛べ、竜王よ、水たんもれ、水神よ」とかけ声とともにステップを踏んで踊る。
村の行事として伝承してきた踊りは、戦争の影響や、のちに水道施設の整備が進んだことで、大正9年を最後に休止してしまう。しかし、昭和43年の明治百年を機に、村の有志が「一宇村雨乞い踊り保存会」を結成、古老から踊りを習得して復活。昭和48年には徳島県無形民俗文化財に指定された。

平成26年8月25日(旧暦8月1日八朔の祭)、氏神様に奉納

九州・沖縄
  • 下水流臼太鼓踊保存会(しもずるうすだいこおどりほぞんかい)
  • 昭和4年頃設立
  • 宮崎県
下水流臼太鼓踊の保存・伝承
宮崎県西都市穂北の下水流地区に伝わる太鼓踊の一種。この太鼓踊りは九州から沖縄地方にかけて広く伝わっており、衣装と臼形の太鼓を身につけて隊を組んで移動しながら踊る。その起源は古く、安土桃山時代の豊臣秀吉の朝鮮半島出兵のとき、加藤清正が敵を油断させるために踊った戦術に由来するとされる。それが庶民の暮らしの中で念仏踊りとなり、水難や火よけ、五穀豊穣を願う踊りとなったという。なかでも下水流臼太鼓踊は、「背負いもの」と呼ぶ幟(のぼり)をつけて華麗さを競う風流太鼓踊りの一種として、民俗造形的にも貴重なものとしても評価を受けている。
その特徴ある幟は、竹竿3本に白、赤、青の和紙と布で作った花房を下げた高さ3.3m、重さ15kgにもなる巨大なもの。鉦(かね)4人、太鼓16人、唄4人の男性24人が一組となり、鮮やかな色彩の幟を揺らしながら躍動的に踊る様は見る者を魅了する。
旧暦の8月1日(八朔の節句)には、五穀豊穣・水難・無事息災の祈願を込めて南方神社や一ツ瀬川原、地区公民館にも奉納している。
昭和37年4月に宮崎県無形民俗文化財として指定、また昭和46年11月に国選択無形の民俗文化財に選択された。南国色豊かな装いと、躍動感溢れる唄・踊りが評価され、これまでに東京オリンピック、沖縄海洋博、つくば万博、北京オリンピックプレ中国公演など、国際的なイベントでも日本を代表する伝統芸能のひとつとして披露されてきた。
下水流臼太鼓踊は、古くから長男への世襲制をとってきたが、最近では後継者不足が問題となっている。保存会では、地元の穂北中学校で講演や技術指導を行うなどして、郷土芸能を保存継承していくためにも積極的に取り組んでいる。

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