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顕彰と助成

本年度の受賞者

令和元年度 第39回 伝統文化ポーラ賞 受賞者(敬称略)

優秀賞

作品の縁かがりを行う(平成25年頃)

  • 藤塚 松星(ふじつか しょうせい)
  • 昭和24年生まれ 神奈川県
竹工芸の制作・伝承

「彩変化(さいへんげ)」とは、藤塚松星さんが自身の竹工芸の作品の技法につけた名称。見る角度によって、竹ヒゴの色が追いかけるように玉虫色に変化してくる。例えば、平成21年 第49回東日本伝統工芸展でMOA美術館賞を受賞した「彩変化花藍」では、朱と黒の2色に染め分けられた竹ヒゴが、櫛目編に組んだ花籃全体を駆け抜けるように並び、視点を移すと色のグラデーションが変化を見せる。

この色の移ろいを可能にするのは、「伝統にあって伝統に従わないところに現代を見る」と評論される、藤塚さんの独創的な技法と表現である。通常は竹ヒゴの断面を丸や四角にするところを、敢えて三角形に調整し、三角形の断面それぞれを効果的に染め分けることで、マジックのように色が変化する作品を生み出す。

彼が竹芸作家の馬場松堂に師事し、竹工芸に進んだのは23歳の時。家業の継承で作家になったわけではなく、自らの選択で希望した道だった。彼の雅号には「星」の字が入っているが、それは小学生のころから関心を寄せてきた天文に由来する。彼は、一度はサラリーマンとなったものの、天体観測を続けたいとの思いから、自身で時間を調整できる仕事を目指したという。

基礎を学ぶために数多くの竹工芸の品をつくる下積み生活の中で、藤塚さんは師が公募展などに向けて作品を創る様子を間近で見ることができた。竹工芸の造形に対する知識や現代化に対する理解がある師の下で、彼は自分に機会が訪れるのを待ち続けた。しかし、彼が追い求める竹工芸の現代作家への道は険しく、初めて平成4年に伝統工芸新作展で奨励賞を受賞した時には43歳になっていた。

しかし、そこから毎年のように公募展での受賞を重ねる快進撃が続き、平成29年には第16回伝統工芸木竹展に出品した「彩変化花藍『日月』」で文部科学大臣賞を受賞。平成24年には紫綬褒章を受章している。創作の一方で、工房を置く神奈川県大磯で学校教育の一環として「子ども竹細工教室」の講師やワークショップ、大学など後進への指導や普及活動にも尽力しており、その功績を称えて今回の受賞となった。


第16回竹本越孝の会 (平成24年11月 内幸町ホール) (撮影:福田知弘)

  • 竹本 越孝(たけもと こしこう)
  • 昭和28年生まれ 東京都
女流義太夫節の伝承・振興

「義太夫は、和製オペラ」と語る竹本越孝さん。その例えには、義太夫が単なる語り芸ではなく、情景描写やセリフ回しまでも音楽と考えて演じている自負が込められる。それは素浄瑠璃(すじょうるり)とも呼ばれ、太夫と三味線の二人だけで、人形や舞台美術などなしに物語を立体化する。なかでもヒロインが切々と述懐する義太夫のクドキやサワリが「オペラのアリアに似ている」という。その語りは登場人物を声色ではなく“息に声を乗せる技”で瞬時に変化させ、豊かな表現力で観客を魅了する。

昭和47年、女流義太夫の世界に飛び込んだのは18歳の時。大学の浄瑠璃のゼミに所属する先輩から義太夫節の調査を頼まれ、電話帳を頼りにたどり着いたのが師匠であり後に義母となる故・竹本越道(第16回 伝統文化ポーラ賞 特別賞受賞)だった。初めての彼女に義太夫節を語り演じてみせるなど、気さくな師匠に稽古を勧められ通ううちに入門することに。
かつて師匠は娘義太夫の最後の一人、東都随一の美人太夫と評判された逸材。当時の上野・本牧亭でトリをとる師匠が、修業中の弟子の傍らで10年間も三味線を弾いてくれたという。

越孝さんは、昭和49年に初舞台を踏み、精進を重ねて平成12年に重要無形文化財「義太夫節」(総合認定)の保持者に。同19年と23年には女流義太夫で初となる素浄瑠璃でのフランス公演を成功させるまでになった。

近年は師越道ゆずりの『艶姿女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)』「酒屋の段」などで人物像の的確な語り分けが注目され、平成30年に演じた『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』「祇園一力茶屋(ぎおんいちりきぢゃや)の段」の掛合いでは、寺岡平右衛門(てらおかへいえもん)の語りが出色の出来と称賛された。また本年5月の『義経千本桜』「すしやの段」では90分余を語り通し、無頼漢いがみの権太の隠された悲劇を浮き彫りにした名演で、独自の芸境を切り拓き、その熟成が評価されて今回の受賞となった。

越孝さんは「先達の芸を守りながらも伝統芸能は動かすことが大事」と、古典から創作もの、他の音楽芸能とのコラボレーションを企画するなど精力的な活動を続けている。


奨励賞

工房にて赤絵絵付を行う(令和元年7月)

  • 見附 正康(みつけ まさやす)
  • 昭和50年生まれ 石川県
九谷赤絵の制作

リズム感ある微細文様が異次元の世界へと誘う、見附正康さんの「赤絵細描(あかえさいびょう)」の作品。細い面相筆を用いて、白磁に上絵の具(紅殻)で絵付けする、「九谷赤絵」と呼ばれる伝統技法である。白の磁肌に赤が映え、明治から昭和初期にかけて九谷焼の代名詞になるほど流行した。従来は吉祥文様や花鳥風月、中国の古典柄が多かったが、見附さんはその技法を受け継ぎながらも、現代的な感覚を取り入れて赤絵細描のイメージを一変させた。

例えば茶碗・大皿・蓋物などの白磁に、モスクのドーム天井やアラベスクを思わせる華麗な幾何学文様を展開し、見たこともない空間を創出させる。色彩は艶を抑えた赤の細線に青や金がアクセントとして施され、モダンな表情を帯びた器は独特の品格を漂わせる。

昭和50年、見附さんは石川県加賀市のサラリーマン家庭に生まれるが、もともと絵や書道が好きで、こどもの頃から続けてきた書道で鍛えた筆遣いには自信があった。ものづくりの素質を見抜いていた父の勧めもあり、高校卒業後に石川県立九谷焼技術研修所へ進む。研修所で九谷焼の基礎的な技法を学ぶ中で、途絶えていた赤絵細描を復興させた第一人者である福島武山に出会う。見附さんは赤絵細描に魅了され、平成9年の卒業後も外弟子として福島武山に10年間師事し、超絶的な技巧を習得した。

平成18年の伝統工芸士認定を機に独立。国内外の展示会などに参加し、平成22年には第1回金沢・世界工芸トリエンナーレ展(金沢21世紀美術館)に出品。平成26年には日本スイス国交樹立150周年記念の一環として行われた日本現代美術展に出品して、スイス、ポーランド、ドイツを巡回した。また、同年に三重県で開催された第9回パラミタ陶芸大賞展では大賞を受賞している。

九谷赤絵の伝統的な技法を用いながらも、独特な空間を演出して生み出す若々しい作風は、未来につながる新たな赤絵作品として期待され、今回の奨励賞の受賞となった。


『阿古屋』箏・三弦・胡弓演奏(平成27年10月 紀尾井ホール 第1回川瀬露秋の会)(撮影:福田知弘)

  • 川瀬 露秋(かわせ ろしゅう)
  • 昭和42年生まれ 東京都
地歌箏曲・胡弓の伝承・振興

川瀬露秋さんは、箏曲発祥の地といわれる福岡県久留米市出身。日本の伝統文化を好む母親の影響で、7歳から箏や三弦を学び始める。中学校2年生のときに、川瀬さんの地歌三弦と尺八を習っていた弟2人で合奏した「長等(ながら)の春」で、三世川瀬順輔(第29回 伝統文化ポーラ賞 優秀賞受賞)に見い出され、斯界に入った優れた素質の持ち主である。

15歳で上京し、順輔の義姉である川瀬白秋(第11回 伝統文化ポーラ賞 特賞受賞)の内弟子となり、のちに養女に迎えられ家の芸の後継を託された。

川瀬一門の九州系地歌箏曲と師の胡弓にひたすら精進を重ねて、昭和62年、「白秋会25周年記念演奏会」にて「三曲糸の調」を演奏し、小林露秋の名を許された。さらに、平成21年、川瀬白秋の養女となり、平成23年「白秋会50周年記念演奏会」にて『阿古屋(あこや)』を演奏し、川瀬露秋を改名披露した。

その後も、芸に磨きをかけ、平成27年と本年春の独奏会で、その成果を遺憾なく表し、その存在感の大きさを示すに至っている。とりわけ師承の芸・胡弓の演奏に出色の味わいをみせ、評価を一段と高くしたことが注目される。

一方、師匠開拓の歌舞伎三曲にも精力的に取り組み、多彩な歌舞伎音楽の箏・三弦・胡弓の領域で、舞台出演から黒御簾まで演奏・作曲編曲に活躍し、さらに若手俳優指導等に尽力、歌舞伎界への寄与も高く評価されている。坂東玉三郎の『阿古屋』では後見、また『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』「縁切り」の胡弓演奏を長年勤めてくれた白秋の後継者だからと声がかかる。舞台の演奏や後見を通して多くのことを学ぶという。歌舞伎『阿古屋』上演には三曲指導・後見として、いまや不可欠の存在ともなっている。

令和元年は川瀬さんが養女となって、10年の節目となる。養母の川瀬白秋は、平成25年に亡くなったが、さまざまな芸の力や人脈を残してくれた。師なきあと、九州系地歌箏曲を藤井泰和に師事。その芸脈の次世代継承者として、また、国内外での演奏活動や後進への指導など、多彩な活動を通して、一層の活躍が期待できるとして受賞の運びとなった。


地域賞


工房にて刺し子テーブル掛けの制作(令和元年6月)

北海道・東北
  • 遠藤 きよ子(えんどう きよこ)
  • 昭和14年生まれ 山形県
原方刺し子の制作・伝承

米沢市に住む遠藤きよ子さんが40年以上にわたって手掛けてきた「原方刺し子(はらかたさしこ)」とは、米沢藩の「原方衆(はらかたしゅう)」と呼ばれた下級武士の妻たちが始めた伝統的な手仕事。布を重ね合わせて図柄を縫い込むことで、着物の耐久性や保温性を高める工夫をした刺し子のひとつだ。

遠藤さんは米沢織の織元の家に嫁ぎ、義母から刺し子の手ほどきを受けたことで、自身がのめり込むことになったという。なかでも遠藤さんのその後を大きく変えることになったのが、代表的な原方刺し子の手法が散りばめられている「花雑巾」と呼ばれるもの。困窮のために半農半士を余儀なくされた原方衆の妻たちが、武家の目印として玄関に置いた刺し子で、華やかに縫い飾った雑巾。今でいえば玄関マットのようなものだが、その一枚には妻たちの武家の誇りや意地、家族を護る愛情が表現されていたものだった。

原方刺し子の代表的な図柄は60種類くらい。六角形の枠の中に、子どもの健康や夫の出世を願う意味を込めた吉祥柄など、様々な幾何学模様を縫い込んで創る糸目が美しい。遠藤さんは、その原方衆の図柄を基本に創作柄も取り入れ、自宅でテーブルクロスやタペストリーなど、数多くの刺し子の作品をつくり続けてきた。一方で、地元の学校などで郷土の手工芸として原方刺し子の普及に努めてきた。

昭和62年、平成2年には刺し子の手引書や作品集を出版し、個展や展示会も開催。平成12年には自宅に「刺し子工房 創匠庵(そうしょうあん)」を設立し、アメリカ、ベルギーやイタリアなど海外の展覧会やワークショップにも活動の幅を広げてきた。

平成13年米沢市芸術文化協会文化功労賞受賞。平成20年と21年には河北工芸展で山形県知事賞受賞、米沢市功労者表彰を受け、平成30年には創匠庵内に米沢市内の伝統工芸品をPRする「よねざわ伝承館」を設立。同年には農村文化研究所が遠藤さんの技を保存する映像化事業(助成/ポーラ伝統文化振興財団)にも協力している。

こうした地元に根差した原方刺し子の活動と、これまでの国内外で発信し続けてきた作品づくりの活動を高く評価されて、今回の受賞となった。


一般社団法人義太夫協会主催「女流義太夫演奏会」にて講演 (平成26年4月23日 国立劇場演芸場)(撮影:福田知弘)

関東
  • 水野 悠子(みずの ゆうこ)
  • 昭和21年生まれ 東京都
女流義太夫の研究・振興

「女性が語る義太夫は、身近な“おふくろの味”のようなもの」と、平成10年に初めて出版した著書『知られざる芸能史 娘義太夫』(中公新書)で、その味わい深さを記しているのが女流義太夫研究家として活躍している水野悠子さん。この芸能は、娘義太夫や略して「女義(じょぎ)」ともよばれ、200年以上もの歴史を持つ。明治時代には、現在のようにアイドルを盛り立てるファンクラブ「堂摺連(どうするれん)」もできたという。時代とともに人気は低迷してきたが、今でも女性たちだけで演じる素浄瑠璃であり、伝統芸能のひとつである。

昭和44年に東京外国語大学スペイン科を卒業した水野さんは、それまで学んできた外国語や西洋文化の知識の一方で、自国の文化を何も知らないことに愕然とする。その後は、落語、講談など寄席演芸関係の仕事を経て、昭和48年に社団法人義太夫協会(現・一般社団法人)に事務局員として入社。そこで平成5年まで20年間にわたり、会報の発行、例会運営や出演交渉、義太夫教室の運営など精力的に活動してきた。女流義太夫を舞台裏で支え、故・豊澤仙廣(重要無形文化財「義太夫節」保存会長)らの信頼も篤く、協会に所属する太夫たちの相談に親身に応じるなどの人柄が、彼女の女流義太夫研究家としての基盤となった。こうした活動により、平成5年には義太夫協会から豊澤仙廣賞を受賞している。

平成12年に『演芸資料選書・7 娘義太夫-人名録とその寄席-』(日本芸術文化振興会)を上梓。平成15年には、歴史学や女性史などの研究者から評価される『江戸東京 娘義太夫の歴史』(法政大学出版局)を出版。平成11年の国立劇場清栄会奨励賞受賞、平成27年の文化庁長官表彰という実績にもつながっている。

平成14年には藝能学会常任理事となり、現在も女流義太夫公演の解説や講演、著作活動、時代考証など多方面で活躍しており、こうした斯界への献身的な活動、記録を続けてきた功績を評価して今回の受賞となった。


熟成した皮つき原毛の選別を行う (平成28年6月)

中国・四国
  • 畑 義幸(はた よしゆき)
  • 昭和26年生まれ 広島県
川尻筆の制作・伝承

書家を唸らせる筆と評される、畑義幸さんの川尻筆。筆の四大産地といわれる広島県呉市川尻町で、江戸時代からの歴史を持つ高級筆のひとつ。その特徴は、筆の毛を整える「練り混ぜ」(水で湿らせた毛を混ぜる高度な技術)により、筆の穂に墨などをしっかりと含み、独特な書きやすさを生み出すという。書道用のほか日本画、陶器や漆器の絵付けなど、川尻筆は制作現場で用いられる高品質な職人筆として信頼されてきたという歴史がある。

畑さんが祖父、父の跡を継いでこの世界に入ったのは18歳で、今年で半世紀を迎える。原毛選びから仕上げまでを一人で手掛け、「川尻筆の第一人者」といわれている。一本の川尻筆をつくるのに、細かい作業も入れると70工程を超えるといわれ、その一つ一つに畑さんの強いこだわりがある。なかでも難易度が高いとされる羊毛筆に注力してきた。原材料の羊毛は、中国に生息する野生の雄山羊の顎下から胸にかけての毛(細光鋒)を皮つきで入手し、数十年熟成させて質の良い毛を選ぶ。この毛の選別をする日は、天気の良い午前中で、南向きの部屋で作業にあたるという。

制作で一番難しいといわれているのが、「練り混ぜ」の工程。5段階の長さの毛をそれぞれ束にして水に浸して揉み、櫛を掛けて無駄毛を除去してヒラメという状態をつくる。ヒラメを台の上でハンサシという刃のない小刀で薄く横に広げ、端から畳むように丸め込む。この工程を数十回繰り返して均一に混毛し、切れ毛や逆毛などを徹底的に除去することによって独特の粘りが生まれ、書家が絶賛するきわめて高品質の筆になるという。

川尻筆のような高級筆をつくるには、長年の経験と勘が必要とされるが、畑さんは昭和57年に全国書道用品生産連盟技能賞を当時最年少の31歳で受賞した。また、平成10年には彼がつくった最高級羊毛筆に日本一の値がついて話題になった。

現在は、四代目となる息子の幸壯さんの後継者指導に加え、平成18年からは地元の呉市小学校で筆づくりの体験学習を毎年実施している。後継者の育成、地元小学校での筆づくり体験学習の実施など普及活動にも尽力しており、その功績が顕著なことから、今回の受賞となった。


横仙こども歌舞伎教室「管原伝授手習鑑𠮷田社車曳の段」 (平成30年11月24日、横仙歌舞伎大公演)

中国・四国
  • 横仙歌舞伎保存会(よこぜんかぶきほぞんかい)
  • 平成41年設立 岡山県
横仙歌舞伎の保存・伝承

横仙歌舞伎(よこせんかぶき)の故郷である奈義町とは、岡山県北東部に位置する人口6,000人にも満たない小さな町。地理的には鳥取県に隣接し、那岐山の麓に位置することから、名前の由来にもなる横仙(山の横)歌舞伎の名称がついたという。

現在の保存会が結成されたのは昭和41年だが、その歴史は江戸時代まで遡る。山陽道を通って、出雲や播州(兵庫県)の芝居役者たちが流行していた歌舞伎芝居をかけに訪れるようになり、地元民たちの娯楽のひとつとなっていた。いつしか役者の芝居を見るだけではあきたらず、自分たちで演じてみようと始まったのが「地下芝居(じげしばい)」と呼ばれる横仙歌舞伎だ。

横仙歌舞伎の人気は江戸から昭和の初期にかけて続き、付近の神社の境内には歌舞伎専用の舞台が建てられ、芝居を見にくる人々が集う社交場として賑わったという。しかし、昭和30年代の高度経済成長期には都会へ出て行く若者も増えて人口も減少し、テレビや映画などの新しい娯楽に人気を奪われて衰退していく。

それを残念に思い立ち上がったのが故・高森源一さんで、昭和41年に彼が岡山県重要無形民俗文化財保持者に指定されたことをきっかけに、保存会が発足。私財を投じて舞台衣装やかつら、道具を買い揃えて保存会を育てた。昭和51年には保存会自体が岡山県重要無形民俗文化財に指定され、奈義町も横仙歌舞伎の活動に支援を広げてきた。

現在、保存会は年間4回の定期公演や県内外での出張公演をこなしている。また、小学校3年生の総合学習として歌舞伎指導を行うほか、町内の小学校から高校までを対象にこども歌舞伎教室を開き、後継者養成に取り組んでいる。これに対して奈義町は、町職員として後継者育成と普及活動を担う歌舞伎専門職員を採用するなど、他の地域にはない取り組みを行っている。

なかでも奈義町のこどもたちが演じる横仙歌舞伎のこども歌舞伎は、平成21年に岡山県内の小学生で文化やスポーツなどで活躍する団体を讃える山陽新聞桃太郎賞(こども歌舞伎部門)を受賞している。こうした地域に根差した伝統芸能の取り組みが評価されて、今回の受賞となった。

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