第38回 伝統文化ポーラ賞 地域賞

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玉串拝礼。住吉大社の御田植神事の中の1つで、本殿に於いて、今年の豊作を祈願する

  • 阪口 純久(さかぐち きく)
  • 昭和7年生まれ
  • 大阪府
上方芸能の保存・振興

「客たちは下界でのさまざまなる困難さを背負い、その困難という荷物を露地のそとにおろし、素のままの身になって、座敷にすわる。そのマレビトに仕える芸妓・仲居は、職業としての上代の巫女の末裔のようなものだといえそうである」と、作家の司馬遼太郎が評したのが、大阪ミナミ・宗右衛門町にあった料亭「大和屋」の四代目・阪口純久さんが背負ってきた道のりである。

「大和屋」は明治10年創業、大阪四花街のなかでも格式の高い大茶屋のひとつとして、政財界をはじめ文壇など各界の要人たちに長く親しまれてきた。明治43年には「大和屋芸妓養成所」(芸者学校)を創立、芸妓が鯱のように逆立ちする話題の「へらへら踊り」を創作するなど、代々にわたり大阪の花街を盛り立て、その文化の中心に位置してきた。

昭和7年、三代目阪口祐三郎さんの長女に生まれた純久さんは、早くから家業を担う人材として父から厳しい「仕込み」を受けてきた。4、5歳から日本舞踊の稽古を始め、6歳になると調理場にも入れられたという。昭和36年、「花街の魁」と呼ばれた三代目が亡くなると、四代目女将として後をつぎ、上方文化を積極的に発信する快進撃が始まった。

東京オリンピック翌年の昭和40年には、「南地 大和屋」本店を新改築。本式の能舞台をもつ上方芸能文化の殿堂として、芸能を披露する舞台にしただけではなく、地元の祭儀を行う拠点としても使い、数多くの文化人とのネットワークを広げてきた。その人脈づくりの手腕は、その後も遺憾なく発揮され、昭和45年の大阪万博で大阪各花街連盟を束ねた「大阪おどり」を開催、そのときの仲間たちの後押しを得て昭和58年には財団法人上方文化芸能協会(現:上方文化芸能運営委員会)を設立、理事に就任。それには、司馬遼太郎がまとめた設立趣意書をもって、花街の女将たちと企業や自治体を回る活躍を見せた。こうした活動で平成12年には大阪市民表彰を受けている。

平成15年、「南地 大和屋」の看板は下ろすことになったが、料亭としての「大和屋」のおもてなしの味とこころは、ホテルや各百貨店などに出店している店に活かされており、現在も上方文化芸能運営委員会の委員として、上方文化を残すために各種の講演会や催事で発信し続けている。その長年の功績を称えて、今回の受賞となった。

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